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IT的な比喩への違和感について

IT用語を使った比喩によって、語られる内容が安っぽく感じられる。
語る本人にその気はないのに、受け手の私が冷めてしまう。
そんな風に感じることがあった。

あるいは、そう感じているのはある年齢以上の人々であり、比較的若い世代には、実感のこもった表現なのかもしれない。
事実、こうした表現が、1980年代以降に生まれた、結構評価の高い批評家・評論家に多い。

パソコン・スマートフォンやネットワークシステムを皮膚感覚で使用しており、ことさら「IT的である」という自覚は、特にないのかもしれない。
IT的な構造を、人間社会に当然のように当てはめて検討を加える。
構造の特徴がITに特有であるという認識は薄く、むしろ人間社会と親和性の高い仕組みとして捉えているのかもしれない。

全面的ではないものの、私にとって、やや違和感のある発想である。

1990年代の終わり頃だったろうか、IT業界人の結婚式のスピーチはつまらない、と時々耳にしていた。
曰く、「専門用語をやたらと使って、内輪ウケ話でしかない」とのことだった。

当時この批判を聞いた私は、なるほど、と思ったものだ。

それから10年以上経ち、内輪ウケ話の市民権は着実に拡大した。インターネットの一般化によって、内輪の"輪"が、格段に大きくなった。
IT用語による比喩がためらいなく使われるのも、そうした時代背景があるからだろう。

なんとなく、社会の議論が内輪話化して、誰かや何かを排除しているのではないかと、ちょっと不安だ。

IT (情報技術) の持つ構造は、それ自体がよく整理されている。とても複雑な仕組みも、分解された部分部分は、門外漢が思うより、はるかに整理されている。

この構造を人間社会に当てはめると、人間の意外性・発展性が尊重されにくくなる。

構造自体が、個々の部品の均質性を期待しているからだ。

誰かが強く意図しているわけでもないのに、結果として、人間に均質性が強いられかねない。
人間社会に適用される構造が人間に与える影響を考えて、やっぱりちょっと不安になった。

チャップリンは、産業革命以降の工業化社会に翻弄される人間を描いたけれど、2014年の今、社会のIT化を支えた設計思想や構造的手法に、人間が翻弄されているのかもしれない。

そんなことを、つらつら思うのだった。